村治佳織さんギタリスト
幼少期から数々のコンクールで優勝し、国内外のオーケストラとの共演やソロ演奏、
ある調査では日本一だと思う女性ギタリストで一位に選ばれており
日本を代表するクラシックギタリストです。
ギター演奏以外にも、テレビやラジオ出演、エッセイ連載、映画音楽の作曲など多岐に渡り長年ご活躍されています。
そんな村治佳織さんの学歴(高校までとパリ留学時代)や、ご家族は父親や弟さんもギタリスト?
そしてプロフィールなどをまとめてみました。
村治佳織の学歴は?高校時代まで
村治佳織さん(ギタリスト)は東京都台東区のご出身です。
学歴につきましては
小学校は東京都台東区の区立育英小学校を卒業。
この台東区立育英小学校は2001年に柳北小学校と統合し、台東区立台東育英小学校となっています。
そして女子聖学院中学校・高等学校へ進学しました。
14歳の時に東京国際ギターコンクールで一位となったことが村治佳織さんのデビューのきっかけとなり、翌年の15歳でCDデビュー果たしました。
村治佳織さんが中、高の6年間を過ごされた女子聖学院は東京都北区にあります。
その母校には800人収容できるとても立派なチャペルがありそこで村治佳織さんもリサイタルをされています。
2023年の創立120周年特別対談(元女子聖学院校長 小倉義明先生と村治佳織さん)の記事を見つけましたのでご紹介いたします。
村治佳織さんは3歳でお父様の村治昇氏のもとギターを始め、10歳より福田進一氏に師事。
村治佳織さんが中学生の時コンクールで優勝を果たした時の祝賀会で、当時校長だった小倉先生は村治佳織さんの師事する福田進一氏へお聞きしたそうです。
”村治さんがこのまま女子聖学院にいてもよいのかお聞きしたのです。女子聖学院はどんな生徒でも特別扱いしません。
村治さんにはギターを練習する時間が必要なのに、女子聖学院にいれば他の生徒と同じように一般的な学業にも時間を取られます。
両立するのはとても大変なことです。すでに開花した才能を足止めしてはならないと私はずっと思っていました。” と。
小倉先生がどれだけ一人ひとりの生徒のことを思っているか、生徒全体の学校生活のことを考えているのかが、うかがえる素敵なお話しだなと思いました。
そしてそれを聞かれた福田進一氏はこう答えたそうです。
”「ぜひ女子聖学院で勉強を続けさせてくだい。」
「ひとたび音楽の世界に入るとひたすら音楽だけになり人間関係も狭くなります。せめて佳織さんには中学高校といろいろな人と触れ合い、友だちとの時間を作ってほしい。」
「それが人間としての基礎経験になりますし、今しかできないことなのですから」” と
“この福田先生のお言葉で覚悟が決まりました。” と、小倉先生
才能溢れる10代の村治佳織さん、当時を想像しますとこれからの輝かしい未来の光が見えるようです。
そんなキラキラした村治佳織さんのことを想う二人の先生、素晴らしいい大人達に見守られ導かれていたのですね。
村治佳織さんご自身もこの対談の中で
”父を含め、周囲の方に本当に恵まれていたと感じています。” と語っています。
女子聖学院に進学したのも、お父さまが一番成長する時期に受験勉強に時間をとられないようにという配慮があったからとのことでした。
そして村治佳織さんは、修学旅行に行っていないのだとか。
”当時はひどい風邪でもひかない限り5日もギターを弾かないということはありませんでした。
一つのものを極めることと学校生活を成立させることの難しさをその時実感しました。” と。
わあ、これは10代という早い時期に才能が開花した方たちの学校生活での、所謂あるある!といった気がします。
”先生方がギターを持っていくことを許可するか、許可したとして旅席の雰囲気のなかで本当に練習できるのか、楽器の管理はどうするのかなど様々に議論してくださいました。”
“特別扱いはしないけれども理解を示すとはこういうことなのだろうなと思います。” と語る村治佳織さん。
一人の生徒に対して大人達が真剣に向き合い何がベストなのかを議論する。。。私にはとても理想的な環境に思えます。
村治佳織の学歴は?パリ留学時代
そして村治佳織さんは高校卒業後、パリのエコール・ノルマル音楽院に留学しました。
(*エコール・ノルマル音楽院とは?調べてみますと、パリにある私立の音楽院で、私立では唯一の高等音楽教育機関としてフランス政府から認められているとのことです。)
”当時ギター留学と言えばフランスが主流だった” と村治佳織さん。
パリで初めての一人暮らしをし、そこで自分を振り返るという経験をし、自分の意見をしっかり持つということを学んだそうです。
パリでの留学生活が村治佳織さんに新しい空気を送り込んでくれたのですね。
それまでの日本では、父親や福田進一氏から学ぶというより吸収するという意識が強かったけれども、パリでは生徒がはっきりと自分の意見を先生に対しても言う姿を見て、
自分の意見を持ということがとても新鮮なカルチャーショックだったそう。
日本からパリへという物理的に場所も大きく変わり、周囲の人々も言葉もまったくの新しい未知の世界の中で見るもの聴くものそして自分の吸っている空気まで違うと感じるぐらいの変化があったのではないでしょうか。
19歳~21歳という若い村治佳織さんの中の何かが変化していく様がわかるエピソードがあります。
高校生になった弟の奏一さんが留学したいと言い出したのだが、父親の昇さんはそれに反対していました。
それについて留学先のパリから村治佳織さんが国際電話をかけてきて
”「留学させるべきよ。話しをするから奏一をパリに来させて。航空券も送る」
佳織は弟に、友人の妹が通っているアメリカの学校への留学を勧めたのだ。”
と、猛反発したのだとか。
村治佳織さん、自分の意見をしっかり持ってそれをお父様へハッキリと主張したということなのですね。
それに対し、
”「正直、驚きましたね。あんな勢いで言い張る佳織は初めてでした」” と、父親の昇さん。
このエピソード、まさに新しい親子関係に変化した瞬間なんだな‼と思いました。
そしてこのエコール・ノルマルで師事していたポンセ先生から
”「頭と心と腕を常につなげてよく循環させなさい」と言われたことが、今も心に残っています。”
と、村治佳織さん。
留学中にはCD「カヴァティーナ」の録音、CMやテレビ番組のドキュメンタリーの撮影もありました。
このドキュメンタリー、もともとはパリ留学を撮る企画だったのが、ロドリーゴ氏からの手紙(CDを聴いた)が届いたのがきっかけでロドリーゴ氏へ会いに行くという内容に変更されたそうです。
この変更も村治佳織さんご自身からの提案とのこと。
ここでもご自身の考えを発信したのですね。
それにしてもロドリーゴ氏から直接お手紙が届くとは⁉
ロドリーゴ氏といえばスペインの作曲家であり、代表曲としてギターのアランフェス協奏曲がありますね。
私はこの曲が大好きです。
その旋律やギターの音色を聴くとふっと異国の情景が浮かんでくるのです。
そんな偉大な作曲家から直接お手紙が届いたとは、すごい‼ですね。
私のイメージではクラシックの作曲家とう方は遠い昔の方々というイメージでしたので、同時期にご健在であったということにも驚きました。
調べましたら、ロドリーゴ氏は1999年7月6日に死去しています。
村治佳織さんがパリに留学していたのが1997年~1999年ですので、ロドリーゴ氏の本当に最晩年にお二人はお会いしていたのですね。
そしてロドリーゴ氏は3歳の頃に悪性ジフテリアにかかり失明したとありました。
そんなロドリーゴ氏の耳に聴こえてきた村治佳織さんの奏でるギターの音、そしてお会いした時の雰囲気はどんなふうだったのだろう?と想像してしまいました。
年齢の離れた、そして異国の者どうし、けれども音楽とギターという共通のものを通してのお二人の出逢い。。。
時を感じさせないものがあるような気がしました。
ただ、ロドリーゴ氏はピアニストではあったが、ギターは弾かなかったそうです。
私はてっきりロドリーゴ氏ご自身もギタリストであると、だからあの素晴らしいアランフェス協奏曲を書いたのだと思っていましたので、この話しは意外でした。
- そして1999年にエコール・ノルマル音楽院を卒業した村治佳織さんは帰国後、本格的なソロ活動を開始しました。
村治佳織の家族は?父親はギタリスト?
村治佳織さんのご家族、父親は村治昇さん。
村治昇さんもギタリストで、現在東京都で「村治昇ギター早期才能教育教室」を主宰しています。
父親の村治昇さんは、1966年より大沢ギター音楽研究所、尚美高等音楽院ギター科で講師を、
そしてその後ギター教室を開講しました。
父親の村治昇さん、東北から上京し働きながら大学の予備校に通っていた時に、初めてクラシックギターを聴いたそうです。
それは、お友達の弾く音でした。
その時、
”すごくきれいな音だなあと思いましたね。この道で生きてみようと、先生を探して入門したんです。すでに20歳でした。”
と、父親の村治昇さんが語る記事がありました。
お友達の弾くクラシックギターのきれいな音色がお父様の人生を動かしたのですね。
そしてその2年後には上述のとおりギター講師になっています。
20歳というと一般的な楽器からすると、始めるには少し遅い感じもしますけれども、
いや、しかし20歳の若者の純粋な気持ちを大きく動かし、そのクラシックギターを始めたい!と思ったその勢い、
その後2年という短期間で講師にまでなったということを鑑みますと、村治昇さんのその集中力や
才能といものの素晴らしさを思わずにはいられません。
その後28歳で教室を開きました。
28歳で開校とは順調な滑り出しに見えますね。
そして、母親は英子さんといいます。
その昇さんのギター教室に生徒として来ていたのが母親の英子さんで、小学校の教師をされていました。
その後お二人はご結婚し、1978年に村治佳織さんが生まれました。
この佳織さんというお名前、「よい人生を、丹念に織り上げるように」とつけられたそうです。
このような想い、そして願いが込められているお名前なのですね。
ギターを奏でる村治佳織さんのお姿を重ね合わせて想像すると、とてもしっくりくるお話しだなと思いました。
佳織さんはジャラーンとギターもおもちゃのように触れていたそうです。
教師として働く母親の英子さんは忙しかったため、父親の昇さんが教室の合間をぬって村治佳織さんの相手をしていたと。
村治佳織さんご自身もこの頃を
”2歳から自分のギターを持っていました。あるんですよ、ウクレレよりも大きくて普通のより小さな子供用のギターが。
父がギター教室を開いていたので物心ついた時から自然に触れさせられた…”
と、このように語っています。
ウクレレよりも大きめの…子供用のギターがあるのですね、バイオリンと似ているなあと思いました。
そんな可愛らしい子供用のギター、私も見てみたい‼
それに聴いてみたいし、自分で弾いてもみたい、音も普通のギターと何か違うのかな?などと色々と想像してしまいました。
そして、村治佳織さんのギターの最初の手ほどきは父親の村治昇さんから…だったのですね。
というかもう自然に、生まれたときからギターが生活の一部だったということだったのですね。
そして父親の村治昇さん2017年「ギター教授歴50年の歩みを振り返って」という記事の中で
”ギターと出会えて本当に良かった! ギターは素晴らしい楽器です!
心を込めてギターにそして人生に感謝”
と、綴っています。
初めてクラシックギターの音を聴いた20歳の頃、その時の感動がそのまま50年以上の歳月を経てもずっと持ち続けていらっしゃるんだなと感じました。
”ギタリストになるために父親を選んだと思えるほど父との繋がりは深い” と語る村治佳織さん
オーラの泉という番組で、あなたがお父さんを選んで生まれてきた と言われたそうです。
ギターをこよなく愛するお父様の昇さんと小学校の教師だったお母様の英子さん
両親とも村治佳織さんにとっては人生の宝、
”思春期をトラブルなく過ごせたのは父親が冷静に受け止めてくれていたのと、安定した家庭環境で支えてくれた母のおかげだと思う” と。
村治佳織の家族は?弟もギタリスト?
そして村治佳織さんには村治奏一さんという弟さんがいます。
村治奏一さんもギタリストです。
1982年7月14日生まれで村治佳織さんの4歳年下です。
ギターを始めたきっかけは?というと…
”朝起きて歯を磨くような感覚で、生活の一部にあったという感じ…”
と、ギターを始めるきっかけは無かった、と語る弟の奏一さん。
生まれた時からいつもそこにはギターがあったということで、そこはお姉さんの村治佳織さんと同じですね。
”朝6時には父がもう待っているので、行かないと怒られて…”
朝6時からとは⁉ 一日の始まりはギターからという感じ?
毎朝のラジオ体操的な感じだったのでしょうか?
いや、いや、ラジオ体操とは違いますね。
お父様の村治昇さん、けっこう厳しかったんだなと想像してしまいました。
弟さんの村治奏一さん、もしギタリストになっていなかったら…?
”IT系の企業に進んでみたかったかもしれない” とも。
中学3年生のころにはホームページも作っていたという弟さんの村治奏一さん
パソコンを使う時間が増えて9割パソコン、ギターが1割ぐらいになった時はよくお父様の村治昇さんに叱られたそうです。
おこがましいですが、この頃の奏一さんの気持ちがなんだか分かるような気がします。
ギターは生活の一部のようなものだから、そんな中にパソコンという未知のものが入ってきて
それはもう村治奏一さんにとっては、それはもうとても魅力的なものに思えて夢中になっていったのだろうな…と。
お父様の教室の発表会で4~5歳の頃から人前で演奏しており10代後半からコンサートで演奏するようになりました。
今は年間20回ぐらいコンサートを開催しており、村治佳織さんと姉弟でのデュオコンサートも行っています。
そして奏一さんこんなことをお話しされています。
”絶対に100%の力を出さない”
”100%の力を出し切ってと思うと聴き手が入ってくる余地がなくなってしまうから 8割ぐらいの力を使って演奏し、2割は余裕をもって残しておく”
”自分は演奏者ではあるんだけれども、同時に聴衆としての自分を作る”
”一方的に演奏者に徹していると分からないようなことが、客観的に見ていることができその場で修正が出来る” と。
なるほど、何事にもいい意味での遊び(余裕)の部分が必要だということなのですね。
観て聴いているこちら側からすると、演奏に入り込んで何かが降りてきているように見える演奏者も実は、この村治奏一さんのようにちょっと離れたところから自分自身を観ている…なんてこともあるのかな?
それともそういうタイプの演奏家と、没入し別世界へ飛んでいく演奏家とタイプが分かれるのだろうか?などど思いました。
また、アメリカでも音楽活動ができるO-1 b ビザ を取得しており、またNHK「街道てくてく旅」のテーマ曲の作曲もしています。
村治佳織のプロフィールなど
生誕 1978年4月14日(46歳)
出身地 日本東京都台東区
職業 クラシックギタリスト
活動期間 1993年 –
レーベル デッカ・レコード
パリで初めての一人暮らしをし、そこで自分を振り返るという経験をし、自分の意見をしっかり持つということを学んだそうです。
父親は村治昇さんでギタリストです。
父親の村治昇さんは二十歳の時に初めて聴いたクラシックギターにすごく綺麗な音だなあ、この道で生きてみようと、そこからギターを始め、その後ご自身のギター教室を開きました。
村治佳織さんの母親英子さんはこのギター教室の生徒さんだったそうです。
母親の英子さんは小学校の教師をされていました。
4.村治佳織の家族は?弟もギタリスト?
弟さんの村治奏一さんも、プロのギタリストです。
4歳年下の弟の村治奏一さん、村治佳織さんと同じく父親の村治昇さんからギターの手ほどきを受けました。
佳織さんと奏一さんの姉弟のデュオリサイタルも開催しています。
3.村治佳織のプロフィールなど
生誕 1978年4月14日(46歳)
出身地 日本東京都台東区
職業 クラシックギタリスト
活動期間 1993年 –
レーベル デッカ・レコード
3歳より父・村治昇よりクラシックギターの手ほどきを受け、10歳より福田進一に師事。
- 1993年 15歳でデビュー、
- デビューCD「エスプレッシーヴォ」をリリース
1999年パリのエコール・ノルマル音楽院を卒業後帰国し本格的なソロ活動を始めました。
国内外のオーケストラ等と共演、ジャンルを超えたアーティストとの共演、テレビCM、テレビ番組、ラジオ番組、映画音楽、そして雑誌連載 など 多岐に渡りご活躍されています。
2012年には「たいとう観光大使」に任命されました。
以上、村治佳織さんについてまとめてみました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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